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2014年10月1日水曜日

アメリカからみた日本

【Opinion】
アメリカ滞在中の当会よびかけ人・キスト岡崎さゆ里師から所感がとどきました。ご紹介します。
 
 

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 NY・マンハッタンで911跡からウォール・ストリートに向かう際、たくさんのパトカーがそこら中に集まり道路を封鎖し始めました。ものすごい人だかり、そして騒ぐ声が聞こえてきたと思ったら、オキュパイウォールストリートに遭遇しました。
 地球温暖化の危機を訴え企業の利益優先のあり方に反対するという主張でした。必ずし...
も怒声ではなく、しかし一致して声をあげる人々のエネルギーに圧倒されました。「怒りの平和主義者」と書かれた看板を高々とかかげた人をやっとのことで写せましたが、封鎖の範囲が広すぎて全然コアに近づけませんでした。ガードのこちらからも応援や拍手があり、またポリスもあまり危機感なくのんきそうだったのは、暴力的ではなく「ピースフル」なデモ運動だったからでしょうか。道路封鎖の中を、塾にたどり着きたいと訴える子どもに、ポリスが付き添って通してあげている姿もありました。

 アメリカと日本。村&単一社会と大陸&移民社会、という背景の違いもありますし、もちろん価値観の規範となる宗教性も違います。まったく異なる社会性を持つアメリカと日本を、国全体の規模で比べるのは難しいですが、NYと東京という大都会の間だけで気質の違いを比較するのは適切かもしれません。
 常々感じることですが、「個人レベル(自分のこと)」ではNYの人は、かなり我慢強いと思います。サービスが悪い、レジが混んでいる、など些細なことでいらいらしたり怒りを表すのは「大人じゃない」という意識があるように思います。電車が遅れてもよくあること、ましてや車椅子の人がバスに乗るのに時間がかかるときなど、当然のように静かに待っています。
 けれども、「公レベル(みんなのこと)」、つまり権利問題などの重要なことではかなり怒りや意見を強く発しますし、それをする人もしない人も各人の選択を尊重している気がします。

 日本は、ユニフォーマティズムの強い国なので、全体主義に傾きがちかもしれません。「みんな同じ」を善しとする社会で、他人と違う意見を声に出していくのは勇気が入りますね。いくらそれが「正しいこと」であっても「よくないこと」になってしまうのです。アメリカの教会でお話するとき、「皆さんなら『あなたはユニーク(人と違う)ね』と言われればとても得意!でしょう。なのに、日本では(人と違う、ということは)悪口なのですよ」と言いますと驚かれます。それは、神が一人ひとりをお造りになられたから、という聖書的根拠が文化の中に染み付いているからでしょう。
 つまり、自分が(そして他者も)唯一の存在である(オンリーワン)ことを自覚しているのでアメリカでは「世界に一つだけの花」なんて今さらという感じかもしれません。ですからそれぞれの「自由」をとても大事にします。しかし「みんなのため」を思うのはいいのですが、その加減が難しいとも言えます。アメリカが「世界の警察官(のつもり)」と揶揄される理由でしょう。

 日本でも、アメリカのシリア攻撃について、「アメリカが集団的自衛権として攻撃している」との報道がされているようですね。こちらでは、isis(「イスラム国」と訳されているようですが)によるクリスチャンや女性に対する虐殺や虐待行為などかつてない残虐な行為について報道されており、特に共和党はそのネタをもって、オバマ大統領がisisに対して弱腰だと非難しています。今回のシリア攻撃についてオバマ大統領は今回の「isis」または「isil」と呼ぶ過激派に対しての軍事行動を、「攻撃」ではなくあくまで「自衛権の範囲で」のみ行っている、という意味です。
 しかしそれでは制限があるため、「イスラム国」の被害にあっている現地の人達のことは助けないのか、という意見もあり、その声を共和党は利用してオバマ大統領を攻撃し、イスラムに甘い「イスラム ラバー」と悪口を叩くほどです。イスラムに対してというよりも、それほどテロ行為に対しての嫌悪感と恐怖が強いのでしょう。考えて見れば、自分の国土で戦争をしたことのない国にとって、911は唯一の「外部からの戦闘攻撃」なのです。(また、皮肉なことに「911」という数字は、日本で言えば「119」つまり救急の助けを呼ぶ番号です)

 ですので日本と違うところは、集団的自衛権はアメリカでは国民意識として好意的または当たり前に受け止められていることでしょうか。「自由」は戦って得るもの。そして守り続けるべきもの、と。「正義の戦争(Just War)」という概念を持っている国ですから、国民はアメリカのシリア攻撃が「isisイスラム国」という過激派テロ組織が行っている虐殺に心を痛めそれを止めるためだ、と思っているのかもしれません。

 一方、日本ではどうでしょうか。
 日本はイスラム諸国との関わりがあまり無いですし、直接被害を受けているわけではないので、あまり関心がないかもしれません。では私達の国に、もしイスラム国のテロ行為が起きたらどうなのでしょうか?または、イスラム圏の国々との利害関係が直接的に響いてきたらどう受け入れるのでしょうか?
 日本人は世界を見るときに、単に「自分に影響のある国」だけに目をやり(良くも悪くも)それを意識しすぎているように思います。結局は「自分中心」に世界を見ているだけになる恐れがあります。しかしかといって、今の自民政権が言うように「だから他国を救うため我々も武器を取らなければ」というのは全く違います。それもまた、「人のため」の仮面をかぶった自己主義と透けて見えるからです。
 アメリカとその関連国のしている行為を批判していくのはもちろん重要です。しかし同時に、例えば「イスラム国」で犠牲になっている人たちをどうやって助けていけばいいか、考えなくてはなりません。両方の視点がなければ、本当に「平和を作るもの」とはいえません。自分は何もせず人の批判をして、また関係ない人が傷んでいるのも見て見ぬふりという「平和」ではなく、メノナイト派のクリスチャンのように、自分は丸腰で「人間の盾」となって現地の人を守る、徹底した平和主義を貫く戦いができるかどうか。

 だからこそ、日本の取るべき道はただひとつ、「日本国民だけのためでなく、全世界の人のために憲法9条を死守し、モデル国となっていく」ことです。 そこにほんの僅かでも「自分の国さえ戦争しないならいい」という思いがあっては、それは完遂できません。
 日本が一番意識しているのがアメリカ。そしてアメリカの一挙手一投足に、政治家ばかりか国民も右往左往している気がします。アメリカでは逆に、そんなに日本を意識していません。特に国民は、日本がどうなっているかなどは知りません。
 そうしますと、沖縄の基地問題にしてもアメリカを相手にデモや反対運動をしてもあまり意味が無いと思います。なぜなら、アメリカの「国」は日本の「国」と取り決めをしているからです。
 「国」に一番影響を与えることができるのはその国の国民です。つまり、私達国民が選んだ日本の国が沖縄の基地を許しているのです。アメリカからすれば、「そんなに沖縄に基地を置きたくないならなぜ自民党に政権を任せているの?」ということです。海外に在住している時につくづく感じましたが、選挙権というのは宝物です。この国の国民しか、国を変えることが出来ません。逆に言えば国民にはこの国を変えることが出来る、その民主主義を得ているありがたさ。民主主義の質の高さを測る基準の一つは「個人の自由の第三者(特に政府)による侵害からの保護」だということです(民主主義評価法による)。
 日本国内の戦いがとても重要になっていると思います。そしてさらに重要なのは、それぞれの国に置かれた国民が、政治上の争いに巻き込まれて互いにヘイトを増長させることなく、共に「自分たちを利用しようとしている、自分たち一人ひとりの命を軽んじている本当の敵」を見据えて、分かり合い団結していくことだと思っています。