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2015年7月15日水曜日

「祈らなければ何もはじまらない」ネヘミヤ1:1-11 7.13PMPM@国会で125人が祈る。


「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」

7月13日の夜、Peace Makers' Prayers Meeting@国会に125人が集いました。
 
 戦後70年を迎えたこの年、「平和」の名の下に、戦争国家への道筋が開かれようとしています。
圧倒的な世論の反対と、憲法違反の法案との声にも関わらず、衆院特別委員会での採決が15日、17日、21日などと言われ始めている中、緊急の祈り会を開催したもの。主催は同実行委員会。
剣によらない真の平和を求める祈りを、国会の場で、ご一緒にささげました。キリスト者とともに、思いを同じくする仏教・神道などの宗教者も参加しました。

星出卓也牧師が開会の祈り。
「特定秘密保護法に反対する牧師の会」共同代表の安海和宣牧師、「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会の鷹巣直美さんによる証。
朝岡勝牧師(実行委員長・当会共同代表)による祈りの奨励。
大嶋重徳牧師の導きで全体祈祷。
隣の人と心を合わせて祈る時を持ち、柴田智悦牧師、野田沢牧師が代表祈祷をおこないました。


<祈りの奨励>

「祈らなければ何もはじまらない」ネヘミヤ1:1-11

戦後70年のこの年、バビロン捕囚70年との対比で語られます。捕囚の民の心を歌った詩篇137篇にこう歌われています。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」。今、私たちもこの国のことを思い、憂い、祈るために集っています。

そこで今晩、ネヘミヤ書の御言葉に聞きたいのです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚の民とされた後、ペルシャ帝国がバビロンを滅ぼし、ペルシャの王のもとで仕えていた人、それがネヘミヤです。彼は祖国の荒廃ぶりに心を痛め、王の許しを得て祖国に帰り、都エルサレムの城壁再建に取りかかる。その時の様子を記した書物がネヘミヤ記です。

1.祈りから始まる
彼は祖国の荒廃を知ったとき何をしたのか。「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。『ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください』」。ネヘミヤがまずしたこと、それは主なる神に祈るということでした。しかもその祈りは、祈りながらもすでに腰が浮き上がって今にも走り出そうとする前のめりの祈りではなく、「祈った」という既成事実を作るためのポーズとしての祈りでもなく、こういう時にはそこに行くほかないという主なる神の御前での祈りの姿であり、またこの祈りなしにはそこから動き出すことができないという祈りの姿でもあったでしょう。しかもそれは一言、二言の祈りではないし、ほんの一瞬の祈りでもない。それは昼夜を分かたぬ、日々の祈りでした。

何か事が起こったとき、私たちの心は反応し、体は動き出そうとします。しかし状況が切実であり、一刻を争うように見える事柄だからこそ、私たちはまず主の御前に行き、跪き、頭を垂れて、「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください」と祈ることを忘れずにいたい。すべては祈りから始まる。神の業を待つことなく私たちの業で事を為そうとする過ちに陥らないためにも、まずこのことを心に刻みたいと願います。

2.悔い改めから始まる
それではネヘミヤは主なる神に何を祈ったのでしょうか。6節後半から7節。「私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした」。

ネヘミヤの祈り、それは罪の悔い改めの祈りでした。この祈りはいくつかの点で極めて重要です。第一に、ネヘミヤの祖国と同胞の傷つき痛む姿を思いつつの祈りが、「助けてください。守ってください。癒やしてください。回復させてください。敵を退けてください」という願いでなく、まず己れの罪の悔い改めから始まっているという事実です。すべては祈りから始まる、ではその祈りは何から始まるのか。祈りは悔い改めから。この事実を覚えたいのです。

第二に、ネヘミヤが「イスラエル人のために、イスラエル人の罪を告白しています」とイスラエルの過去の罪をとりなしつつ悔い改めているという事実です。自分たちがこんな状況に置かれているのはアッシリヤのせい、バビロンのせい、ペルシャのせい、アモン人のせい、アラブ人のせい。そうやって原因を外に求めることは容易なことです。しかしネヘミヤは自ら捕囚の地に捕らえ移された者でありながら、祖国滅亡とバビロン捕囚の本当の理由を知っていたのでしょう。自分たちが今、このような境遇に置かれているのはなぜか。それは外の敵たちのゆえではない。本当の理由はただ一つ、主なる神に対するイスラエルの罪にあったと。偶像礼拝によって主なる神を裏切り、己の価値観に頼って律法に歩まず、主の愛を忘れて、背き続けて来たイスラエルの罪。その罪の悔い改めなしには何事も始まらないことをネヘミヤの祈りは教えます。私たちはしばしば自分たちを被害者の場に置き、困難とそしりの原因を自分の外に求めます。しかし本当の原因は私たちの内側にある。御言葉は、まず私たちの罪の悔い改めへと私たちを向けさせるのです。

第三に、ネヘミヤがこの罪をまさに自分の罪として告白しているという事実です。「まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした」。ネヘミヤはとりなしの祈り手として主の御前に立ちつつ、しかし己もまたその罪の当事者だということを自覚しています。自分を蚊帳の外に置いた祈りではないのです。この「当事者としての自覚」ということが、祈りにおいて、とりわけ悔い改めの祈りにおいて重要なことです。「私の罪」を自覚しなければ、いつしか私たちは自分自身を他人の罪を糾弾する立場に置いて、自分の目の中の梁に気づかず、兄弟の目の中の塵を取ろうとする過ちに陥るでしょう。

3.「きょう」の祈りから始まる
冒頭で、このネヘミヤの祈りが四ヶ月に及んだであろう、長い祈りであったと申し上げました。慌てて走り出すのでなく、まず跪いて祈る大切さを教えられます。それとともに最後に目を留めたいのは、ネヘミヤの次の祈りです。11節。「どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように」。ここにある「きょう」の祈りです。ネヘミヤは慌てふためいて前のめりになることはありませんが、しかしこの祈りが祈られる「時」についてははっきりと見据えています。この祈りは「きょう」祈られなければならない祈りであり、また「きょう」聞いていただかなければならない祈りなのです。明日でも明後日でも、いつ聞いてくださっても、思い出した頃に聞いてくださっても構いませんというような祈りではない。きょう、聞いていただかなければならない祈りなのです。

私たちはこれから祈りをともに捧げたいと願います。「祈ることしかできません」と私たちは言いやすい。しかし私たちは誰に向かって祈っているのでしょうか。何かをしないことの言い訳としての「しか」の祈りでなく、祈った言葉を引き受ける責任の言葉としての「こそ」の祈りを捧げたいのです。

「祈るだけでは何も変わらない」という冷ややかな声があります。しかしこう言いたい。「祈らなければ何も変わらない」と。本気で祈ったら、祈った手はそこから動き出す。ひざまずいた足はそこから一歩を踏み出していく。私たちの祈りは、最後の手段でなく、最初の一歩です。いろいろやって最後の最後にもうあらゆる手を尽くしてやることがないから、最後に祈りましょう、というのでなく。祈ることから始まる新しい歩みへと踏み出していきたい。

「祈っていても何も始まらない」という声がある。しかし祈ることなしには私たちは何もすることができないし、祈らなければ何も始まりません。今週が山場です。恐らくいつかは採決されるでしょう。そして衆院も通り、参議院も通るでしょう。では祈りは無駄なのか。では祈りはもうやめるのか。そうではないでしょう。だからこそ今日から新しく祈り始める。何度でも何度でも祈りの声を挙げ続ける。祈っている中で導かれるところへと勇気を出して進んで行く。神さまどうしてですか。どうしてこれを許されるのですか。神さまこの国をどうしようとなさるのですか。そういう祈りをもささげていきたい。祈る先に私たちの願いを知っていてくださる神は、私たちの貧しい祈りを聞いてくださる。この信頼をゆるがせにすることなく、祈りの手を挙げてまいりましょう。

平和を求める私たちの祈り>

司式:
私たちの天の父なる神よ、いま、私たちの祈りを聞いてください。

会衆:
私たちの平和を求める祈りを聞いてください。 ...

司式:
私たちの切なる祈りを聞いてください。


会衆:
今、この国は大きな曲がり角に立っています。70年前の悲惨な戦争の反省に立ち、平和を 希求する国として歩んで来た私たちのこの国が、大きく道を曲がろうとしています。私たちには憂いがあります。私たちには恐れがあります。祈らずにはおれない心があります。どうか私たちをあわれんでください。この国をあわれんでください。私たちの平和を求める祈りを聞き、あなたの御腕を動かしてください。

司式:
平和の主なるイエス・キリストよ、いま、私たちはあなたの平和を求めています。

会衆:
私たちを平和をつくる神の子どもとしてください。

司式:
私たちをあなたの子どもとしてください。

会衆:
今、この国はまことの平和を必要としています。力による平和でなく、剣による平和でなく、威嚇による平和でなく、抑止力による平和でなく、互いに言葉をかわし、互いに耳を傾けあい、互いにへりくだることからはじまる平和を必要としています。しかし私たちにはそれができません。どうか私たちをあわれんでください。あなたの愛が必要です。あなたの十字架が必要です。あなたの愛によって私たちを神の子どもとしてください。

司式:
私たちのうちに来てくださる聖霊の神よ、いま、私たちにあなたの霊を注いでください。

会衆
私たちを聖霊で満たし、あなたの平和の器としてください。

司式:
私たちを平和の器としてください。

会衆:
今、この国では至るところで平和を求める声が鳴り響いています。若者たちが声を挙げています。母親たちが声を挙げています。戦争を経験した年老いた者たちが声を挙げています。学者たちが声を挙げています。宗教者たちが声を挙げています。声なき人々が声を挙げています。 どうか私たちにあなたの霊を注いでください。私たちに勇気を与えてください。新しい言葉を授けてください。知恵を与えてください。行いを与えてください。へりくだってあなたの愛をあらわす器として私たちを用いてください。あなたの平和のために用いられる器として私たちをお遣わしください。

司式:
父、子、聖霊の神よ、いま、私たちの祈りを聞いてください。

会衆:
私たちの平和を求める祈りを聞いてください。

一同
この国に立てられた為政者に、あなたの恵みを注いでください。彼らがその与えられた務めと責任を果たすことができるように、上からの知恵と力と謙遜とをお与えください。この国に生きる一人一人に、あなたのあわれみを注いでください。とりわけ虐げられている人々、弱い立場にいる人々、助けを必要としている人々、追い詰められている人々、希望を持てない人々、疲れ果てている人々にに、あなたの愛と慰め、具体的な助けをお与えください。 世界の国々に生きる人々に、あなたの祝福を注いでください。差別や貧困に喘ぐ国々、迫害や抑圧の下にある国々、戦争とテロの只中にある国々に、あなたの平和をもたらしてください。私たちをそのために用いてください。平和の器としてください。平和の使者としてお遣わしください。

私たちは信じます。あなたの御心が天で行われるように地上でも行われることを。

私たちは告白します。あなたは真実であられ、あなたの力がこの地に現れることを。

私たちは賛美します。あなたの御名があがめられますように。御国が来ますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。