2015年12月12日土曜日

【Event Report】 主への服従から生じる「抵抗権」 PMPM@NAGOYA2

    【Event Report】 PMPM@NAGOYA2

     12月11日に名古屋市の日本同盟基督教団名古屋福音伝道教会を会場に開かれたPMPM@NAGOYA2(同実行委員会主催)。「平和をつくる者は幸いです。どうか主に従っていくものとさせて下さい」ーー会堂をほぼ満席に埋めた参加者がともに学び、主を賛美し、祈りを合わせる幸いなときとなりました。

     集会の様子と、講演の概要をレポートいたします。







      集会は、山本陽一郎牧師(実行委員・日本同盟基督教団多治見中央キリスト教会牧師)の司会で、賛美と祈りから始まりました。2人の姉妹が自らの信仰で社会と向き合ってきた歩みと証しについてスピーチ。「この時のため ~日本にあるキリストの教会の責任~」と題して山口陽一師(東京基督教大学教授・日本キリスト教史・当会よびかけ人)が講演しました。
       今年のこの国と歩みが、「戦後70年」という歴史の中でどのようなところに置かれているのか、また戦前のキリスト教会の反省を振り返りました。そして、ローマ人への手紙第13章から「抵抗権」-政治参与の責任について説きあかし、キリスト者・キリスト教会が間違った政治のもとでどのように祈り、行動すべきかについて深めるものでした。
       会堂が満席となるほどの参加者が駆けつけ、ともに祈り、賛美し、平和をつくる人とさせてくださいと誓いを新たにする時となりました。

      <講演より>  (参加者のまとめで、講演そのものの文字起こしではありません

      「この時のため ~日本にあるキリストの教会の責任~」

       山口陽一師(東京基督教大学教授・日本キリスト教史・当会よびかけ人)



        









       まず、エステル記4章14節から、私たちが主から遣わされているこの時、この国が、いったいどのようになっているのかを考えました。
       その出発は、「戦後70年」。敗戦の歴史と、おおきな犠牲の上にうちたて、70年間守ってきた日本国憲法の国民主権、基本的人権、平和主義が、新自由主義と国家主義によって機能不全におちいり、人のための国から国のための人とされ、戦争で殺し殺され、日の丸君が代、神社参拝が国家儀礼とされ、信仰の自由が脅かされようという時代に入りつつあるのが「この時」です。


       
       つぎに、戦前のキリスト教会の歴史から、反省と教訓について学びました。対米開戦直前の1941年、日本のプロテスタント教会は、「日本基督教団」に合同。その教団規則には、「聖書に従って」と言わなければならないところが、「皇国の道に従って」とされていました。そして、大東亜戦争を「聖戦」と呼び、戦争の遂行のために神の召命を受けて教団がつくられたとの理解のもとに、戦争に協力していった歴史を持っています。
       「時のしるしをみわけられるままに、ただ国民大衆とともにおしながされるだけであったということは、日本の教会および個々のクリスチャンの責任を問われるべきことでしょう」(小塩力)という言葉が胸にささります。
       そのような反省から私たちはいま、何を学ぶべきなのか。ローマ人への手紙第13章と、「抵抗権」からの学びです。多くの先人が深い考察をおこない説きあかしています。
       渡辺信夫牧師(当会賛同者)の「抵抗権について」(1982年)は、カルヴァンの「抵抗権」について学び、「抵抗の根を持つこと、また根を養うこと」「抵抗権は深遠なことではなく、ありふれたこと、日常のことである」と紹介しています。
       権力は神によってたてられたものです。そのゆえに、従い、服従するべきです。しかし、権力は手違いを犯し、間違うこともあります。権力が神にそむくとき、私たちは信仰のゆえに、神への服従のゆえに、隣人への愛のゆえに、権力に抵抗することが必要です。
       聖書には信仰のゆえに権力に抗った例がたくさん記されています。へブル人の男児を殺せとのパロの命令にしたがわなかった助産婦。偶像礼拝を拒否したダニエルたち。イゼベルの命令にそむいて主の預言者をかくまったオバデヤ。「人に従うより、神に従うべきです」とみことばを語ることをやめなかった使徒たち。その後継者たち。 
       抵抗は良心の自由、告白の自由が侵害される時になされ、「それは権力に己の質的反省をうながす」と渡辺信夫師は言います。人民主権の社会では、「人民は正しい政治を自ら行う責任がある。政府があやまちを犯すならば人員自身がそれを改めなければならない。すなわち、人民が権力を一時あずけたものからとりもどすなり、抵抗するなりしなければならない」のです。
       外的には政治的自由であり、内的自由を守り育てるために、信仰者には教会がそなええられているのです。
       いまの日本社会を振り返る時、この「抵抗権」の思想は、個人や教会にとって大切だというだけではなく、国にとっても不可欠なのではないでしょうか。
       抵抗権を嫌う「愛国心」教育が行われています。
       安保法制については、憲法違反の法律だと歴代の内閣法制局長官が指摘し、圧倒的多数の憲法学者や弁護士、元最高裁長官、学者、学生、NGO、医療福祉関係者、母親たちが反対しています。それにもかかわらず、為政者が憲法99条の「憲法尊重・擁護義務」を怠り、強行採決したのです。12月1日には特定秘密保護法が完全施行されました。この法律はチェックする第三者機関を持っていません。12月当初に予定されていた国連の「報道の自由」調査が直前にキャンセルされています。国が危険な方向に行こうとしているとき、その暴走に誰が「否」というのでしょうか。
       抵抗権の問題は、信仰者として自分たちの権利をまもることでもありますが、主に従う者としての国にたいする責任でもあります。
       キリスト者は「王である祭司」という身分をあわれみのゆえにキリストにあっていただいています。
       「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」
      (第一ペテロ2章9節)
       「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」(第一テモテ2章1節)
       安定した統治のためのとりなしの祈りが必要です。またこの祈りは「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(4節)と、救いをめざす福音宣教でもあります。
       最後に預言者しての責任を考えます。日本の教会がもっともできなかったこと、苦しんできたことです。
       王の前に立って神のことばを語った預言者たちは、「わたしのことばを聞くものは、わたしのことばを忠実にかたらなければならない」(エレミヤ23章28節)とのことばのとおり、人を恐れず、神のことばを伝えました。
       「個人についての利欲と虚偽は悪思想であるとすれば、国家的利欲および国家的虚偽はまた極めて悪思想なりと言わねばならない。しかも利欲の正義仮想は悪の極致である」。(「悲哀の人」矢内原忠雄 内村鑑三第3周年記念講演会より・1933年3月)

       おわりに、
       主への服従から生じる「抵抗権」が、今のこの国にとって如何に大切なことかを、それができずに国と共に滅ぶばかりであった教会の歴史に学びつつ確かめた。戦後70年、悔い改めの実としての日本国憲法が壊されつつある。「抵抗権」は私たちの信仰の自由と市民的自由をまもるためのものばかりでなく、この国を守るため、主への服従として、訴えととりなしの祈りの中で行使されなければならない。と結びました。

       
       日本の教会の「抵抗」の当たり前のたたかいを、いよいよ当たり前のものとするために、祈りつつ歩んでいきたいと思いました。